半年以上放置した日記を再開するには、かなりの勇気が必要である。その間に、人類史に記録されるレベルの出来事が起きたとすれば尚更。
しかし、人は生きている限り何かを発し続ける動物である、と、私は思っている。この世に生み落ちて産声を上げたあのときから、静かにもしくは騒がしく生を終えるそのときまで、生き続ける限り、言葉を、声を、思いを発し続けていきたい、と、切に願う。
まあ、実際は単なる言い訳でしかないのだけれど。一応日記の体裁を採っているこの場所は「自分用の(ついでに他の人も読んでもいいよ)記録」に過ぎない訳で、気張らず、畏まらず、呼吸するように、鼻歌でも歌うように始めることにする。
という訳で、2011年2月から8月までの主だった出来事を思い出しつつ箇条書き。
2011/3/7 携帯機種変。
3年使っていた
CASIOのW63CAを家庭内紛失したのでこれ幸いとスマホを物色。
SHARPのIS03に機種変する。電池持ちがいまいちな部分(これは事前に確認済み)以外は大変満足。電池は予備バッテリー+
充電器とモバイルブースター(通称モバブー)
KBC-L2BSでフォロー。ちなみに紛失したW63CAは、auショップで機種変をしているまさにその最中、妻によって発見された。今はデジカメ専用機として重宝している。
2011/3/11 東日本大震災。
いつものように遅番で出勤しロッカーに鞄をしまっている最中に揺れを感じる。まずは店内のお客さんを安全に逃がして様子見するもなかなか収まらず、長時間の横揺れに尋常ではないものを感じる。幸いにも棚の商品がいくつか落ちた程度で他に大きな被害はなく、仕事の合間にネットラジオ等で状況を確認しながら、余震に怯えつつ通常業務。
地震と津波そのものについて、特に自分が語るべきことはない。地球は人間用に作られた施設ではないのだから、そこで生息する限りにおいて、大地や海の挙動に翻弄されるのを完璧に避ける手立てはない。被害の甚大さについても、実はそれほど特筆すべきことはない、と思っている。「数万人が亡くなった災害」と「数人が亡くなった事故」で、残された遺族にとってはどちらもそう大した違いはない筈。哀しみの数と、忘れなければならない事柄の数が増えただけだろう、と。
まあ、忘れようにも忘れていられない、現在進行形でコントロールできてない放射性物質の問題はあるのだけれど。つか、この期に及んでまだ原子力発電を推進する輩の頭の悪さだけは本気で理解できない。子々孫々に害悪引き継ぐのはやめんさいよホント。
2011/3月後半 いろんな物が不足した。
車通勤者なのでガソリン不足が生活を直撃。普段からEMPTYギリギリまで待って給油する癖が仇に。ネット、主にTwitterのリアルタイム情報をチェックし、開店していた(後で思い出す為に書いておくが、油不足でぜんぜん開いてなかったのよ、GS)近所の某ENEOSの列に朝6時から並ぶ。ガス欠の恐怖(ホントにほぼ空っぽだった)におびえ、アイドリングも最低限にのろのろ進むこと約1時間。何とか20lだけ給油。次週には普通に給油できるという話もあったが、通勤できんのよそれじゃ。
コンビニやスーパーから飲料水がまったく無くなったのにも驚いた。もっとも我が家は放射性物質への恐怖は特になく(妻は若干びびってたけど)、普通に水道水を利用してたのでこっちは別にどうという影響はなし。電池不足がちょっと心配ではあったが、それでも若干の買い置きはあり、こちらも不都合はなかった。だいたい、普通は緊急時に買い込むもんじゃなくて、備えで買い置いておくもんじゃないのか?
その他いろんなものが店頭から消えた訳だが、物資の不足そのものよりも、災害の際の皆さんの慌てっぷりに困惑した。今回の場合、落ち着いて行動すれば(多少の不自由さはあれ)生活に甚大な支障をきたすものではない筈なのだけれど。逆にいうと、慌てて行動して何とかなるレベルの災害なんて、たかが知れている。
2011/4月中旬 異動。
まあ、しがないサラリーマンなので辞令は粛々と受け止める訳だが。いちおう転居しなくても勤められることを考慮してくれたようだが、車で1時間(ラッシュ時だともっとかかる)のはちょっとつらく、引越し物件を探しつつハードワーク(忙しい店なんだこれが)をこなす毎日。
2011/5月 転居。
転居先も決まり、多摩市民から八王子市民へ。八王子市役所が立派過ぎてちょっと笑った。というか多摩市役所があまりにアレ過ぎたのかもしれない。
あと何かあったかなあ?仕事が忙しすぎてほとんど何も覚えていない。思い出したら追記する予定。という時点で既に日記でも何でもないな。
ちなみにこの項目は、2011/9/2に書いている。本当にまったくもって日記でも何でもない。ちなみに日付を8/10にしたのは、8/11のRIJF2011のレポを書きたいが為だったりする。